第二章 水の章 -我が国の水の歴史について(前編)-

佐賀県唐津市 松浦川

1. はじめに

「日本は資源に乏しい国である」とよく言われるが、我が国は平均降水量が1,718mmと世界平均(880mm)の約2倍であるなど、豊富な水資源に恵まれている1)。一方で、日本の河川は世界の河川と比べて、明治時代のオランダ人技師デ・レーケに「これは川ではない、滝だ」と言わしめたほど延長が短くかつ急勾配という特徴(図1)があることから治水が困難であり、水田稲作の発展と共に歩んできた我が国の歴史は河川との苦闘の連続であった。

図1:日本と世界の河川勾配
(引用:大地への刻印 P58)

モンスーン気候の影響で降水量の季節変動が大きいため、大雨時には急勾配な河川が氾濫して大量の土砂を運び、山地から平野への流出場所には扇状地、河口付近には三角州、その間には自然堤防後背湿地からなる氾濫原が形成され、人々の主な生活舞台となる沖積平野となった(図2)。一方、海岸部では長い年月の土砂・粘土の自然堆積により湾→潟→湖へと陸地が前進し(図3)、人為的な干拓も作用して広大な平野が形成された。人々は河川に育てられたこれらの平野において、河川洪水による村落の廃絶・再建といった過程を繰り返しながら、時の指導者の元で知恵と労力を結集して小河川から大河川へ利用範囲を拡大し、新しい沖積地へ灌漑可能耕地を拡大してきた(図4)。また、水車による水力利用や、近代まで物流の主流であった水運など、人々は水を巧みに活用することで生活を豊かにしてきた。

図2:河川と沖積平野の形成(イメージ図)
図3:河内湾から大阪平野への形成史
(引用:大地への刻印 P60)
左:縄文期(5000~2000年前)
河内湾は砂・土砂の堆積により河内潟となる。
右:弥生~古墳期(1800~1600年前)
中州が湾口を塞ぎ淡水化して河内湖となる。
→その後、人為的な干拓等により大阪平野となった。
図4:河川利用の歴史
(引用:川と人との関わりの歴史、国土交通省)

前編「土の章」では、主に「人口と食料」に着目しながら、我が国の水田開発の歴史を振り返った。本編「水の章」では農業土木のルーツとなる「水を利用するための技術」に着目し、文明の誕生から現代に至るまで先人達が深く関わってきた「水」の歴史を振り返り、農業土木技術の将来を展望したい。

2. 水田耕作による文明の誕生(縄文・弥生時代)

植物の採取や狩猟を中心に生活してきた縄文時代においては人々は河川の氾濫原を避けて居住していたとされ、河川との関わりが強くなるのは稲作技術伝来以降のことである。縄文時代は自然と共生しながら「採集・狩猟・漁労」によって自然から食料を享受してきたが、弥生前期になると「農耕」によって自然を改変して食料を確保するようになり、生活が一変した。この時代には木製の鍬(くわ)や鋤(すき)などの道具を用いて水田を広げたとされており、地形を改変する技術が未発達であるため、水を得やすい沖積平野の後背湿地谷地などの自然の微低地を水田とし、微低地に隣接した自然堤防などの微高地に集落を設営した(図2、「土の章」図2)。

弥生前期の水田は湿田にいくばくかの手を加えた程度のものであったが、人口が増えて集落が保有する労働力が次第に大きくなると、人々は土地を改良した。静岡県の登呂遺跡(弥生後期:1世紀頃)では10ha程度の水田地帯の中央部に用排兼用水路が設けられ、矢板と杭の列を張り巡らせた畦(あぜ)と50以上の長方形区画が確認されている(図5)。弥生後期からは先端に鉄製の刃をつけた農工具が普及し始め(「土の章」図4)、人々は組織的な共同作業によって自然の土地に用水を開発して水田を広げた。

図5:登呂遺跡水田遺構の木杭
(引用:大地への刻印 P24)

3. 古代国家による小河川の開発(古墳時代)

稲作の進展とともに小集落から有力な集団(クニ)へ統合されると、権力により労働力を統制できるようになり、渡来人が伝えた技術も相まって土木技術が発展し、井堰による取水、河川堤防の築設、排水路の掘削が行われた。

4~5世紀になると古照(こでら)遺跡(愛媛県)の井堰(図6)のように、木杭を合掌式に組み合わせて隙間に粘土や礫を詰めることで河川の水位を堰上げる構造の堰が作られるようになった。このような取水施設は壊れやすい構造であるため、小河川にしか作ることができなかった。しかし、水田が増えて必要な揚水量が増加すると堰を設ける河川の規模も大きくならざるを得なくなり、簡単な堰を築いては洪水のたびに流失や埋没のために再建する、そんな過程を数限りなく繰り返した。水田面積を拡大するためには更なる水源確保が必要であり、3世紀から6世紀頃まで数多く築造された古墳は、指導者の墓としてのみでなく、集濠を水源として利用する目的もあったとされる(「土の章」図5)。

図6:古照遺跡の堰と断面図
(引用:大地への刻印 P116)

一方で、水を求めて沖積地へ進出すると水害が増大するため、仁徳天皇(4世紀~5世紀前半)は仁徳11年より茨田堤(まんだのつつみ)難波堀江(なにわのほりえ)(図3)による治水事業に着手した(日本書紀)。淀川の堤防である茨田堤には築堤困難な切れ目が2箇所あり、夢のお告げにより2人の人柱を捧げることとなるが、その1人(茨田衫子(まんだのころものこ))は人柱になる際にひょうたんを投げ入れて神の真偽を問い、死を免れたとされる。難波堀江は、淀川や大和川の洪水流入により頻繁に氾濫する河内湖の水位を下げるために中州を開削した排水路であり、瀬戸内海から河内湖へ大型船が入り込むための運河としても重要であった。

仁徳天皇は仁徳4年に民家のカマドから炊煙が上がっていないことに気づいたため3年間免税することとし、宮殿の蔵が空になり屋根も塀も荒廃してもなお免税を継続した。民のカマドに炊煙が戻り、仁徳10年、免税から6年後にはじめて天皇は税・労役を命じた際は、民は老いも若きも自主的に材木や土籃(つちかご)を背負い、昼夜をいとわず競って働き、程なくして宮殿が落成したとされている2)。時の権力者の功績の脚色もあろうかと考えるが、大型公共事業の原型となるこのような治水事業は、指導者と民衆との信頼関係がなければ実現できなかったことであろう。

古墳時代における土木技術の発展は古墳の規模にも現れており、奈良盆地の崇神陵(すじんりょう)・景行陵(けいこうりょう)(3~4世紀頃)の主軸長が300m未満であることに対して、河内平野の応神陵(おうじんりょう)・仁徳陵(にんとくりょう)(5世紀前半)の主軸は500m近くとなっている。古墳築造前には杭と縄を用いて地面に輪郭を書いて測量・設計したとされる。仁徳陵大仙古墳の建設に必要な工事量は140万㎥の墳丘(ふんきゅう)盛立、70万㎥の二重濠(ぼり)の掘削、500万個の葺石(ふきいし)等とされており、当時の土木技術は鉄製の鋤・鍬と運搬用のモッコを用いた人力作業であるため、1日2,000人を投じても17年間の歳月がかかると試算3)される。情報伝達手段も限られる中で、これほどの大労務集団を把握、統率して作業させるためには、どのような施工管理体制だったことであろうか。労務者の他にも食事を支給する人、工具を作成する人、埴輪を作る人などを含めて、1日6,000人が建設現場に集中したと考えられている。

4. 律令制と仏教・土木技術の伝来(飛鳥・奈良時代)

飛鳥時代になると大化の改新(645年)が行われ、地方豪族による地方支配の強い氏族的社会から、隋・唐の進んだ文化や制度を取り入れた律令制国家、すなわち、中央集約的な国家体制に整備されていく。公地公民の制班田収授法という法制度は、米そのものが大和朝廷の財政的基盤であることを示すものであり、水田の拡大と用水の確保は、朝廷の存続と律令体制の絶対条件となった。

7世紀になると前方後円墳が消え去り、仏教とともに大陸の土木技術を習得した高僧が谷池型式のため池を築造する技術を普及させた。行基が築造した狭山池(さやまいけ)(大阪府)は「古事記」や「日本書紀」にも記されている日本最古のため池とされるが、狭山池を現代に改修(平成13年竣工)した際に、堤底の木樋管を年輪年代法により測定した結果、616年(7世紀初頭)に築造されたものであることが判明した1)。ため池は谷部の一辺の築堤で貯水可能であるため、掘込式より土工量が少なく効率的であるが、ひとたび決壊すれば人為的な大水害に繋がるため、当時の技術者達は極度の責任感を持って計画・築造したことであろう。ため池は水田の拡大と合わせて近代に至るまで数多く築造され、自然災害による損壊と改修を繰り返して、全国で約16万7千のため池(令和元年6月時点)が引き継がれている。空海が弘仁12年(821年)に改修した満濃池(まんのういけ)(香川県、図7)は元暦元年(1184年)に洪水決壊し、約450年を経て江戸時代に改修され、安政の大地震(1854年)により破堤しては復旧、その後明治38年、昭和2年、昭和16年と3回の嵩上げ工事を経て、昭和34年に現在のため池規模(15,400千㎥)となった。

図7 左:満濃池 リーダーの指示で大勢が
杵で堤防を突き固めている状況
右:ため池修復の写真
(引用:大地への刻印 P126、P163)

大化2年(646)に朝廷より「耕地開発のため河川に堤防を築造せよ」という詔(みことのり)が発布され、農民の賦役により耕地開発を目的とした治水工事が実施された。奈良時代中期に条里制施行と合わせた治水工事と新田開発が急速に進展して天平文化の栄華を支えたが、一方で、耕地が氾濫域に進出したため、洪水被害が厳しさを増したことが日本書紀などから伺える。平城京の造営に当たっては条里制の升目状の地割に合わせて人工的な水路を整備し、京内への洪水の流入の防止を図るとともに物資運搬用の運河を開削した。

5. 荘園時代の水利(平安時代~)

墾田永年私財法(743年)が定められた頃の初期の荘園は寺社・貴族・地方豪族などが直営する「自墾地系荘園」が主流であり、10世紀頃からは地方の豪族や有力農民が政府の圧力や貢納を避けるために開墾した土地を有力な貴族や寺社に寄進し、自分はその管理者となって実権を握る「寄進系荘園」が主流になった。荘園が増えていくと中央国家による大規模事業が困難になり、平安時代には土木技術の進歩がほとんどなかったとの記述もある。

荘園は50町歩程度の規模が主流であり、小河川やため池に依存した用水体系となるが、用水やため池の修理が怠られるようになり、水害や水不足により「かたあらし」と呼ばれる耕作不安定な水田が増加した。東大寺は950年に全国の荘園で水田3,462町を所有していたが、そのうち実際に耕作されたのは212町(6%)であった4)

794年に平安京へ遷都してから明治時代に至るまでの1000年以上の間、日本の首都・京都の物流を支えたのは「水運」であった。急流な日本の河川の多くは洪水時と渇水時の流量差が大きいため、舟運やかんがい利用に不向きであるが、淀川は大河川であるにも関わらず琵琶湖の調整機能のため流量が豊富かつ流況が安定しており、製塩地、森林地帯、農産地が広がる瀬戸内海沿岸と京都を結ぶ物流の大動脈となった。同じ淀川水系でも、琵琶湖を経由せず京都市内を流れる鴨川は院政を始めて権力の頂点にあった白河天皇(1053-1129)が自らの意に沿わないもの(天下三大不如意)の筆頭にあげたほどの暴れ川であった(あと二つは賽(さい)の目と比叡山の僧兵)。

琵琶湖の北端から日本海へは直線で約20kmであり、東岸には東日本へ通じる主要な街道が通っているため、琵琶湖水運は京都と日本海・東日本を結ぶ物流でも重要な役割を果たした(図8)。特に、北陸地方は大陸からの使者が到着する玄関口であり、雪解け水によるゆるやかで流量豊富な河川は稲作にも水上輸送にも適していたことから、数多くの荘園が開発され、北陸地方の年貢米、水産物や漆器などの特産品が水運を利用して京都へ集められ、平安時代に開花した国風文化を支えた。天永元年(1110年)に開削された十郷(じゅうごう)用水(福井県、図9)は興福寺所領の荘園600haを潤す当時の最大規模の用水であるが、春日明神のお告げにより九頭竜川河畔で鹿が三回鳴いた場所(現在の鳴鹿(なるか))に堰を築堤し、鹿の通った跡に溝を掘って延長28kmの用水になったとの伝説が残されている。

図8:琵琶湖の湖上交通
(引用:宮内庁ホームページ)
図9:十郷用水絵図
(提供:「図説 福井県史」(福井県))

荘園の原点である井堰や水路は、水を守り、田を守り、したがって荘園を守るものとして、荘園の神社には水神が祀られた。和泉国日根荘(いずみのくにひねのしょう)(大阪府)絵図(図10)に大井堰大明神、溝口大明神等の神社があるように、境内に水路を持つ神社は井堰や水路の利用者や普請を施してきた人々に崇拝され、祭り、田遊び、御田神事などを通じて集団を結びつける象徴となった。

図10:和泉国日根荘絵図
(提供:宮内庁書陵部)

宇治川沿いでは水車の利用が平安時代に始まった5)。鎌倉時代の「徒然草」では、朝廷が桂川沿いの住民に水車を作るように命じて大金と時間を投じてもできず、宇治川の技術者を呼ぶと容易に水車を築造してしまったことから、「その道を理解している人は尊いものだ(餅は餅屋だ)」と結論づける一段があり、当時の高い水車技術が確認できる。宇治川付近の巨椋池(おぐらいけ)沿いの農地へ取水するための水車は100以上にも達したとされており、水車は16世紀ごろには多くの名所図絵に登場する川の風物詩となった。一方で、はねつるべ、投げつるべ、踏み車などの揚水具図11)が各地で江戸時代以降も利用されており、人々は化石燃料が利用できるまでの長い期間、揚水のために多大な労力をかけてきた。実働する日本最古の水車は約230年前に設置された福岡県朝倉町の重連水車群図12)であり、地元の職人によって5年ごとに作り替えられ、現代にその技術を継承している6)。その後、朝倉の重連水車は、近代化以前の途上国でも維持管理可能な技術で作成されているため、故中村哲医師の手によって山田堰(傾斜堰床式石張堰)の技術とともにアフガニスタンに移転され、時空を越えて異国の大地を潤して人々の命を救っている7)

図11:各地で使われた揚水具
(引用:大地への刻印 P121-122)
(左)はねつるべ 畿内の綿作地で井戸水の汲み上げによく使われた
(中)投げつるべ 干ばつ時の応急的なものとして使われた
(右)踏み車 かつて佐賀平野のクリークで数多く利用されていた
図12 左:1789年以前に作られた「朝倉の三連水車」(提供:農林水産省)
右:朝倉の揚水水車をモデルにしたマルワリード用水路の水車
1200t/日の揚水で40ha を潤している(引用:ペシャワール会ホームページ(2014.2.6 中村医師からの報告))

6. 武士団による荘園支配(鎌倉時代~室町時代)

荘園の管理者が持つ租の免除(不輸の権)の特権が次第に拡大して、役人の立入拒否権(不入の権)を持つようになると、管理者は自衛権を強めて武士となり、権門勢家(けんもんせいか)(有力な寺社・貴族)に頼らずに領地が保証されることを望みはじめた。源頼朝は関東地方の在地領主層のこのような望みを結集して御家人として主従関係を結び、国ごとに守護、荘園・公領ごとに地頭を任命して荘園の支配を強化した。そして、頼朝の守護・地頭の設置・任免権は1185年に朝廷の許可(文治(ぶんじ)の勅許(ちょっきょ))を得て、鎌倉時代が始まった。

鎌倉幕府は未開墾地が広く存在する関東・東北地方に領地を持ち、武蔵国を中心とする関東平野の開発を進めた。当時の技術力では関東平野の氾濫地帯の開発は不可能であったため、開発は関東平野西側の山寄りの部分に限られていたものの、幕府の強い力を背景にして、律令時代以来の大規模な治水・開墾工事が行われた。鎌倉時代には二毛作が発達し、畜力農具による牛馬の利用が進んだ(図13)。各地の地頭たちも幕府にならって枝川・谷川の治水や用水の小規模工事を盛んに行い、木曽川・天竜川・富士川・信濃川などの上流・中流沿いの耕地は武士団の根拠地となった。室町時代に活躍する新田、足利、畠山、細川、一色、今川などの武将は、このようにして開墾地を増やした地頭達であった。

図13:鎌倉時代の武士と牛耕
(引用:水田ものがたり P81)

室町時代に入ると守護は国内の荘園領主の権限を奪い、人や土地を支配する権利を得て守護大名となった。一方、荘園領主の弱体化に伴って荘園で奴隷のように働かされていた中小農民の地位が向上し、地域的にまとまりがある自然集落を単位として農民による自治組織「惣(そう)」が形成され、地域共同で利用する用水が基盤となって農民の自主性が高まった。例えば、京都桂川の今井用水では、領主ではなく村の指導的な農民が主導して、罰則まで規定した用水利用契約を3集落で締結した(1338-42年)4)。また、二毛作の肥料源となる山林原野は農民が共同管理する入会山に変わっていくが、入会地が少ない畿内では惣の間で草刈り場を巡る争いが頻発し、惣の団結が強まった。室町末期から戦国時代になると、農民は地頭や領主から非法に生活を脅かされた場合は、武力で対抗するという土一揆・一向一揆を起こすようになった。

7. 戦国大名による治水(戦国時代~安土桃山時代)

室町時代は幕府から任命された守護大名が各地の支配者であったが、応仁の乱(1467)によって幕府の統制力が弱まると、下克上などにより出自を問わず実力あるものが国力の基盤となる土地と農民を支配する戦国大名となり、他国の領土を奪い合う時代となった。春秋戦国時代の「善く国を治める者は、必ずまず水を治める」との言葉通り、戦国大名は米の収穫量を上げて国力を高めるために、武将たちを指揮し開墾と一体の治水工事を展開した。また、築城や鉱山開発により土木技術が発達し、それまで放置されてきた氾濫域でも築堤や用水路整備が可能となった。

武田信玄が本拠地とした甲府盆地は、四方八方から流域特性が異なる河川が流入し、扇状地を流下する河川が豪雨のたびに流路を変えて氾濫していたため、信玄は1542年の釜無川の氾濫をきっかけに「甲州流防河法」ともいわれる治水対策に取り組んだ。具体的には、甲府盆地の西側から急勾配で流下する御勅使川(みだいがわ)の流路を「石積出し図14、A)」により北に向け、将棋の駒形の堤防「将棋頭(しょうぎがしら)BC)」で分水してエネルギーを分散した後に、「堀切(D)」に流れを誘導して「十六石(E)」で水勢をそぎ、釜無川との合流点で岩石崖「高岩F)」にぶつけて減勢し、さらに釜無川の扇状地では水勢を「聖牛(ひじりうし)図14)」という木枠でそぎながら「信玄堤(しんげんづつみ)G)」という霞堤(かすみてい)によって河道を固定することで、洪水被害を軽減するとともに氾濫域を新田として開発した。霞堤(図14)は不連続な堤防であり、洪水時には河流に逆らわずに堤防の切れ間から上流側への越水を許容することで破堤を防ぎ、洪水後には自然に水が川に戻るという構造であった。また、信玄堤の近くの領民の租税や労力奉仕を免除して移住を進める一方で、水防従事を義務づけて、洪水時には普請奉行からの命令により領民を水防に出仕させる防災体制を整備した。さらに、信玄は洪水期前の水の安全祈願祭である「御幸(おみゆき)祭り(通称:おみゆきさん)」を奨励し、大勢の受益者が重たい神輿を担ぎながら堤防を踏み固めるという維持管理の慣習を定着させた8)図15)。

図14:甲州流防河法による洪水対策と霞堤・聖牛
(引用:ミツカン水の文化センター、大地への刻印 P136、P139)
図15:「おみゆきさん」の状況(提供:甲斐市)
現在も4月15日に毎年開催されている。

信玄の治水技術は中国四川省の成都盆地にある都江堰(とこうえん)という治水施設からヒントを得て考案したと考えられている。その後、佐々成政常願寺川(富山県)において佐々堤(さっさてい)殿様林(とのさまばやし)として伝えられる治水事業(1583)で功績を残すが、この技術は信玄の治水工法と類似しており9)、「長篠の戦い(1575)」の後に信玄堤を経験した技術者が成政の陣営に移り伝えたものと推察される。また、成政の治水工事を支えた大木兼能(おおきかねよし)という家臣は成政切腹後に加藤清正に召し抱えられ、川普請(かわぶしん)奉行となって1588年に肥後(熊本県)に入国した清正の河川改修、新田開発を支えた。信玄の技術は河川上中流の扇状地における治水技術であったが、清正は河川中下流の平野部で「鼻ぐり井手図16)」のような独創技術を用いながら新田開発・干拓等を実施したものであり、根底の技術は同一であるものの、地域条件に合わせて技術を発展させたものであった。その後、朝鮮遠征で清正と苦労を共にした成富兵庫(なりとみひょうご)は、清正の技術を継承した上で、佐賀平野の難しい自然条件(有明海の満潮、筑後川の洪水等)を卓越した技術で制御し、開発した。このように、戦国時代は大名とともに治水技術者が移動して技術を伝え、各地域の特性に応じた土木技術を発展させていった。

図16:鼻ぐり井手(提供:菊陽町教育委員会)
岩盤の仕切り壁下を牛の鼻輪のようにくり抜くことで水が渦を巻き流れ、阿蘇山の灰が水路底にたまらないようにしている。

豊臣秀吉は戦乱を統一すると京都に伏見城を築き(1594)、木津川太閤堤を設けたほか、淀川の水運を整備し、洪水を防いで耕地を拡大するために、宇治川の流れを北に移して巨椋池と分離した(図17)。秀吉は刀狩りによって農民から武器を取り上げ、身分の変更を禁ずること(兵農分離)で下克上の世の中に終止符を打ち、太閤検地によって全国の知行関係を整序化し、次の江戸時代の集権的封建支配の基礎を確立した。

図17:太閤堤による淀川の整備
(引用:水土の礎[淀川水系史歴遊])

8. 「水の章」前編の結び

「水の章」前編では、文明の誕生から古代国家、そして中世における治水・利水一体の「水の技術」を俯瞰した。本編では歴史上の偉人が発展させた技術に着目したが、実際には時の権力者は工事の認可権者に過ぎないという一面もあり、実際の技術の担い手は河川氾濫の被害者かつ工事の直接的従事者である地域の武士・農民、そして彼らの意見を積極的に採用した現場責任者達であると考えられる。我が国の礎を築いたこれらの名も無き技術者達に思いを寄せ、この場を借りて敬意を表したい。

この後、江戸時代に太平の世を迎えると大名は他領地の奪取ではなく自領地の開墾に取組むようになり、信玄の技術は関東平野の大河川氾濫域を開発した「関東流」、「紀州流」へと進化し、江戸期前半は人口・耕地面積ともに倍増する。また、江戸の物流の中心は水運であり、さらに、玉川上水に代表される上水道も出現する。明治期に入ると化石燃料を用いた近代技術と中央集権的な資金投入が可能になる一方で、これまで一体だった河川工学農業土木が分離し、また、近代的な上水道や水力発電など、水利用技術は専門分野に分化しながら深化していく。近世以降の水の歴史については「水の章」後編にてお届けしたい。

引用文献

  1. ダム便覧ウェブサイト
  2. 池田博男、「先生の学校」-よのなか科ウェブサイト
  3. 大林組プロジェクトチーム、現代技術と古代技術による仁徳天皇陵の建設、大林組ウェブサイト
  4. 山崎不二夫、水田ものがたり、農山漁村文化協会(1996)
  5. 国営巨椋池農地防災事業ウェブサイト
  6. 福岡県朝倉市ウェブサイト
  7. 日本が誇る世界かんがい施設遺産、東方通信社(2019)
  8. ミツカン水の文化センター、水の文化No.32(2009)
  9. 谷川健一、加藤清正 築城と治水、冨山房インターナショナル(2006)

参考文献

  1. 田久保晃、水田と前方後円墳、(株)農文協プロダクション(2018)
  2. 山本晃一、日本の水制、(株)山海堂(1996)
  3. 富山和子、水の文化史、中公文庫、(2013)
  4. 農業土木歴史研究会、大地への刻印(1998)
  5. 徳仁親王、水運史から世界の水へ、NHK出版(2019)
  6. 河川利用の歴史(川と人との関わりの歴史、国交省)
  7. 松山良三、日本の農業史新風舎(2004)
  8. 熊本大学濱武英教授の発表資料、語り部交流会(令和元年11月28日)