第二章 水の章 -我が国の水の歴史について(後編)-

佐賀県唐津市 松浦川

1. はじめに

本企画「瑞穂の国の水土里(みどり)の軌跡その先にあるもの」は、我が国の農業用水(水)、農地(土)、農村集落(里)がこれまで辿ってきた歴史的経緯を見つめ直すことにより、水土の資産を次世代に引き継ぐための新たな手がかりを得ようとする試みである。「水の章」後編として、江戸時代以降の「水」にまつわる歴史を振り返ることとする。

2. 地域特性に応じた技術による新田開発(江戸前期)

江戸時代以前、戦国大名は開墾、治水、築城などの土木技術によって国力を強化し、他国を侵略することで財政基盤である石高を拡大したが、江戸時代に入ると領土が拡大できなくなったことから、近世に至るまで開発できなかった自国領の扇状地や三角州などの氾濫原の開発に着手することとなり、各地域の特性に応じた治水技術が発展した。

大阪平野や畿内盆地で発達した古来の治水技術は上方(かみかた)流と呼ばれ、濃尾平野の入鹿池(1633)や斐伊川(ひいがわ)の若狭堤(1636)に用いられた技術である。

東海地方の木曽三川(木曽川・長良川・揖斐(いび)川)流域にて数多くの輪中堤図1)を築いた技術は美濃流と呼ばれる。輪中堤は、家康の命により徳川御三家である尾張国を守る御囲堤(おかこいつつみ)(1608)が築かれた際に「美濃の堤は尾張の堤より3尺低かるべし」とされたため、洪水が氾濫するようになった美濃国側の自衛手段として発達した。その後、1753年の大洪水の後、徳川幕府は薩摩藩に油島締切堤などの築造を命じ、947名の薩摩藩士が美濃に派遣された。多額の工事費は薩摩藩が全額負担し、工事への抗議に51名が割腹、33名が病死するなどを経て工事が完了、工事完了とともに責任者の平田靱負(ひらたゆきえ)は自刃した(宝暦治水)。

図1:(左)木曽三川の御囲堤と輪中堤(明治改修以前)
(右上)輪中のはじまり(模式図)、
(右下)木曽・長良・揖斐の三川が合流する輪中地帯
(引用:長良川河口堰管理所ウェブサイト、大地への刻印 P96)

仙台平野では、キリシタンの川村重吉が北上川・迫川・江合川流域の大低湿地帯を三川合流工事(1616–1626)により開発し、水上輸送網を確立した。また、後藤寿安(ごとうじゅあん)サイホンを利用した寿安堰(じゅあんぜき)(1618)を開削するなど、キリスト教と共に伝わった西欧技術による開発が多く見られる。

関東平野は、原始河川や大小無数の沼沢が西へ東へ合流・分流を繰り返す大氾濫地帯であったため、幕府は甲州流水の章前編 図14)の流れを汲む関東流伊奈流ともいう)によって、東京湾に流れ込んでいた利根川を徐々に東に付け替えて太平洋側に転流し、これまで開発できなかった関東平野を大穀倉地帯へと変貌させた(利根川の東遷(1594–1654))。

関東流の特徴は「川瀬は一里四十八曲り」というほど河道を蛇行させ、所々に霞堤(かすみてい)を作って沿岸の流作地に濁水を静かに溢れさせ、控え堤により本田を守るという洪水滞留工法であった。関東流のもう一つの特徴は旧河道の利用であり、伊奈忠治は見沼(さいたま市)の旧河道に八丁堤(長さ八町:約870m)を設けて見沼溜井(1629)を築造し、下流の水田の水源とした。また、葛西用水(1660)では瀬替えにより死水化した旧利根川を用排兼用水路に利用して三つの溜井を設け、周辺の広大な低湿地帯を水田化した。関東流は幕府の土木技術として採用され、全国各地に赴任した代官によって広められた。

一方で、幕府や藩は年貢減免措置などで民間主導の新田開発を奨励し、村請新田町人請負新田などによる新田開発も行われた。かつて武士だった市川五郎兵衛が中心になって多数の農民や鉱山夫の力で難工事を克服して整備した五郎兵衛用水(1626–1631、長野県)、深良村名主の大庭源之丞(おおばげんのじょう)らが箱根火山帯の堅い岩盤を1,200m掘抜き数千町歩の水田を拓いた深良(ふから)用水(1668–1672、静岡県)、大坂の豪商鴻池(こうのいけ)が淀川へ流れていた大和川を直接海へ転流して120町歩の新田を拓いた鴻池新田(1705、大阪)などに代表される。

1609年の江戸の人口は約15万人であったが、地盤が固い江戸では地下水利用が容易ではなく、飲み水の確保が課題となった。1590年に大久保藤五郎小石川上水を作り上げ、後に拡張されて1629年に神田上水が完成した。三代将軍徳川家光の時に参勤交代制度が確立すると、大名やその家族、家臣が江戸に住むようになり、人口増加が加速したため、多摩川から取水する玉川上水が1654年に通水し、豊かな水が江戸市中に供給されることとなった。玉川上水は武蔵野台地の各部で分水され、水の乏しい武蔵野台地の新田開発にも大きく貢献した。

このようにして、江戸時代当初に約150万haであった全国の耕地面積は、江戸前期の100年間で約300万haに倍増した。

3. 近世の用排水システムの結実(江戸後期)

18世紀初頭には江戸の人口は100万人を越え、1716年に紀州藩主から八代将軍となった徳川吉宗は、享保の改革の一環として1722年に江戸日本橋に新田開発を奨励する高札を立てた。吉宗は新田開発の実績があった紀州(和歌山県)の井沢弥惣兵衛為永(いさわやそべえためなが)を1723年に幕府の役人に登用し、広大な関東平野の更なる開発が始まった。上方流の流れを汲む大畑才蔵(おおはたさいぞう)から修得した弥惣兵衛の土木技術は紀州流と呼ばれ、関東流に代わってこの後主流となる。

紀州流は関東流の霞堤を取り払い、蛇行していた河道を強固な連続堤と川除(かわよけ)・護岸などの水制工により直線状に固定した。また、八丁堤を開削して見沼溜井を干拓し、代替水源として利根川から取水した長さ約60kmの見沼代用水路(土の章 図7)を建設し、さらに用排分離して見沼代用水沿いの沼地を干拓し、15,000haの新田を開発した。なお、見沼代用水路の一部は昭和40年(1965)に通水した武蔵水路でも利用され、現在でも首都圏に上水を供給している。

江戸時代の物流は水運が隆盛を極めたが、見沼代用水の下流では取水され尽くされて船を浮かべることができず、他方で排水路は下流に行くほど流れが豊富になるため、1731年に下流部の用水路と排水路の水位差(3m)を結ぶ閘門(こうもん)式の見沼通船堀が整備された。これはパナマ運河が完成する183年前のことであった。こうして、通船堀により見沼田んぼから米、野菜、木材など、多くの物資が一大消費地の江戸へ運搬されるようになり、江戸から田んぼへ戻る船では下肥(屎尿)が運ばれて水田に還元され、我が国では都市と農村を結ぶ広大な物質循環の仕組みが構築された。この頃、西欧では都市人口の増加に伴い汚物が街路に投棄(図2)され、ペストが流行するなど、衛生状態の悪化が社会問題となっていた1)。一方で、日本では廃棄物を売買するリサイクルの仕組みが確立されており、幕末から明治にかけて来日した外国人は日本の都市の清潔さに驚いたという。

図2:酔っ払いの頭上に屎尿が降るロンドンの夜
ウィリアム・ホガース作(1738)
(引用:大地への刻印 P75)

1854年、水源に乏しい白糸台地(熊本県)へ水を送るために、惣庄屋・布田保之助(ふだやすのすけ)の独創的な企画・設計と石工技術者集団、肥後藩の資金援助と近隣農民の参加により、アーチ式眼鏡橋の通潤橋図3)が完成した。これは、堅固な石積み技法、逆サイホン式水路、橋上の土砂抜き放水口など、当時の土木技術の粋を集めたものであった。

図3:通潤橋の放水
(引用:農林水産省ウェブサイト)

4. 近代的土地改良の形成(明治前期)

明治初期の土地改良事業は、国家的プロジェクトであった安積疏水(明治11年(1878))、那須疏水(明治18年)、琵琶湖疏水(明治18~23年)の「日本三大疏水」に代表されるが、これに先駆けて明治2年に着手された広瀬井手(大分県)が最も初期の国営かんがい事業である。谷を越え、山を穿(うが)ち流れる総延長17kmの広瀬井手の施工には数多くの難所があったことから、宝暦元年(1751)から4度の着工と中断を繰り返していたところ、文久元年(1865)に庄屋・南一郎平(みなみいちろべい)が日田の豪商・広瀬久兵衛の援助を得て工事を再開したものの、明治2年、一郎平は資金が尽きたために政府に決死の覚悟で嘆願した。これを踏まえて当時日田県知事だった松方正義(まつかたまさよし)が総監府の命を受けて調査した結果、国の事業として採用する運びとなり、着工から約120年を経て明治6年(1873)に完成した。松方はその後、広瀬井手で培った高い技術を持つ一郎平を内務省の技師に採用した。一郎平は安積疏水の全工程に直接従事、那須疏水では総監督に起用され、琵琶湖疏水を調査して水利意見書を提出するなど「日本三大疏水の父」として足跡を残した2)

これらの明治初期の緊急開墾事業は明治2年の版籍奉還に伴う禄制改革によって困窮した士族授産を目的としていた。全国約189万人の士族の棒禄は、幕末期の全国約1300万石から明治4年には4割以下の492万石へと縮小し、明治5年の徴兵令に基づく国民皆兵制度によって職業的武力は不要となり、さらに明治7年の「家禄引換公債発行条例」により封建的資産であった家禄が有償処分され、明治10年に西南戦争が勃発するなど、一般士族、特に下層階級は窮迫していた。

一方、岩倉使節団(明治4~6年)の欧米諸国の視察により、岩倉具視大久保利通らは富国強兵をスローガンに欧米の近代的科学技術を取り入れることで殖産興業を図ることとし、河川では輸送手段として舟運の改善に力を注ぎ、ファン・ドールン(明治5年来日)やヨハネス・デ・レーケ(明治6年来日)に代表されるオランダの治水技術者を雇い入れた。明治当初に大蔵省・民部省の両省が所管した農林行政は、明治6年に殖産興業政策の一貫で設置された内務省が所管するようになり、その後、明治14年に新たに農商務省が創設されると、耕地行政の主管課である農務局陸産課に開墾係と安積疏水係が設置された。

安積疏水(土の章 図10)の実施に当たっては、ファン・ドールンの指導によって日本で初めて農業用水の所要用水量を算定し、工事では堰堤やトンネル・水路底などの補強あるいは構築物に多量のセメントを使用、農業用トンネルの掘削にも日本で初めてダイナマイトを応用し、蒸気ポンプによる排水や電機発破を行うなど、日本の農業土木に西欧技術が普及していく発端になった。

また、時を同じくして実施された民間資金のみによる大規模開田事業・明治用水図4)の発端は、安城(あんじょう)市の都築弥厚(つづきやこう)が自費で開田計画を作成し、文政10年(1827)に江戸幕府勘定奉行に願書を差出したことに始まる。この計画は幕府の支持を得たが、この地域は利害が複雑で地元の支持を得られず、25,000両を出費して都築家は破産した。弥厚の没後40年経過した明治7年、この計画を商人・岡本浜松と大庄屋・伊与田与八郎が別々に県へ出願したため、愛知県はこの2案を一体化し出資者を募り、明治12年に着工した。明治14年に幹線水路が完成し、松方正義らは民間人の出資により実現したこの事業を明治の世を代表する世紀の大事業との意味を込めて「明治用水」と名付け、くまなく水の行き渡った大地は日本のデンマークとも呼ばれる農業の先進地となった。

図4:明治用水旧頭首工絵図(明治42年)
(引用:大地への刻印 P104)

オランダの治水技術は、河道に水制を設けて流路の安定を図り、河を掘削して流量を確保することを基本とする低水工事であった。彼らの指導の下で木曽三川分流事業(明治20~45年)などが行われ、オランダ治水技術は長らく日本の近代治水の模範とされた。

洪水対策の河川改修事業が進むにつれて、用水取水工の合口(ごうぐち)も行われるようになった。合口は従来、水利慣行を基礎とした上流・下流の対立が強い特徴があるが、常願寺川(富山県)では、明治24年の大洪水をきっかけに、デ・レーケの復旧計画により日本初の大規模合口事業が実施されたのである。この後に、明治31年の手取川の七ヶ用水(しちかようすい)(石川県)、明治40年の高梁川(たかはしがわ)の東西用水(岡山県)など、各地で河川改修に付随した合口事業が盛んになった。

河川水利制度については、明治6年の河港道路修築規則によって河川の分類、費用の負担区分、工事施行責任、監督権限などが規定され、河川行政の方向性が整備された。明治13年の区町村会法には郡長か区長を管理者とする水利土功会(すいりどこうかい)の規定が設けられて、多大な努力が払われながら、幕藩時代の用水組合の組織が各地で水利土功会に組み込まれた。明治22年に市制・町村制が施行されたことに伴い、明治23年に水利土功会制度に代わる水利組合条例が制定された。江戸の用水組合と明治の水利組合の違いは、用水組合は水が「ムラ=集落」の共有財産であることに対し、水利組合では地租改正による私有制度や市制・町村制により集落が法人格を失ったことなどを反映して、土地所有者などの個人を構成単位とする区費負担の原則が定められたことである。このように、個人を構成単位としたヨーロッパ風の組合制度が導入されたが、水利組合になっても用水システムは依然として「ムラの用水」であり、水利組合の役員は集落の利益を代表し、その利益を守り、主張することを任務とした。そして明治41年に水利組合法が制定され、普通水利組合が創設された。

5. 高水工事への転換と利水技術の高度化(明治後期)

明治中期になると、オランダから移入された低水工事のみでは洪水被害を抑えることが困難であるため、堤防により河道内に洪水を押しとどめて一刻も早く海へ流下させる高水工事へと治水方式が大きく転換した。この背景は、明治22年に東京-関西間、明治24年に上野-青森間が開通するなどの鉄道建設とそれに伴う建築ブームにより、山林が伐採され、下流部に富が蓄積したことにより大水害が続発するようになったこと、そして、鉄道により低水治水の大きな目的であった舟運の必要性が低下したことが挙げられる。明治29年に河川法(旧法)が制定されて、以降、河道を直線化して高い連続堤を巡らし放水路で河水を海へ流下しやすくする高水治水が主流となる。欧米の近代科学により全川の計画流量を統一的に算定する手法などが実体化し、淀川改良工事(明治30-43年)、大河津分水(おおこうづぶんすい)(明治42–大正11年)などの大規模治水事業が実施され、江戸時代まで農業中心であった水利秩序が治水に重点化されることとなった。この間、上野英三郎(うえのひでさぶろう)が明治33年に東京帝国大学にて農業土木学を開講し、明治40年に農業農村工学会の前身である耕地整理研究会が発足、明治32年に制定された耕地整理法は明治38年に灌漑排水が工種として加えられるなど、農業土木学と河川工学が分岐していった。

また、技術の進展により、水力発電や近代的な上水道などの新たな河川利用が始まった。最初の上水道事業は明治20年の横浜市の水道であり、その後、函館市(明治22年)、大阪市(明治28年)、東京市(明治31年)と各地に広がり、大正10年(1921)に東京市及び大阪市で水道水の塩素消毒が開始されたことによって公衆衛生が向上し、乳児死亡率が劇的に低下した(図5)。

図5:日本の上水道普及率(人口比率)と平均寿命・乳児死亡率
(引用:水運史から世界の水へ P205)

水力発電については、明治21年に紡績工場に電力供給する三居沢(さんきょざわ)発電所(宮城県)が運転開始したことが初事例であり、明治23年には足尾銅山の精錬電力を供給する藤間(とうま)原動所が運転を開始する。商業用水力発電としては、田辺朔郎(たなべさくろう)の功績により明治24年に琵琶湖疏水を利用した蹴上(けあげ)発電所(京都府)が建設されたことが第一号であり、これにより京都市内に路面電車が走った。この頃の水力発電は取水用固定堰による小規模発電で十分であったが、日露戦争が終結(明治37年)すると、重工業や一般家庭用電力の需要急増により、発電所から都市へ送電するための長距離高圧送電技術と並行して、大容量で水力発電するための規模が大きなダム、特に重力式コンクリートダムが建設されるようになった。

6. 近代的ダムによる河川開発(大正~昭和戦前)

日本初のダムは長崎市が明治22年に施工した上水道用の本河内高部(ほんごうちこうぶ)ダム(H=28.2m、アースダム)である。明治33年には、日本初の重力式ダム(粗石コンクリート)として、英国人ウィリアム・バルトンの指導と技師・佐藤藤次郎の設計により、上水道用の布引五本松(ぬのひきごほんまつ)ダム(H=33.3m、兵庫県)が完成し、その後、昭和初期に至るまでの約30年間、日本の近代産業国家の建設を物語るように、上水道用あるいは発電用のコンクリートダム建設が各地で進められた。農業用では大正15年(1926)、県営事業により重力式ダム・豊稔池(ほうねんいけ)(H=30.4m、香川県、図6)が着工するが、基礎岩盤が予定より深いことが判明したため、佐藤藤次郎の指導により、農林省技師の杉浦翠が当時米国でも最先端技術だったマルチプルアーチ方式(粗石モルタル積)を採用することとした。豊稔池の築堤に当たっては、加治茂治郎(もじろう)の尽力の下で、夜間講習会を開いて技能者を養成しながら、地元の築堤材料を用いて、延べ15万人の地元民の労力を投入して昭和5年(1930)に完成した。なお、農業土木学会の創立はこの頃(昭和4年)であった。

図6:(左)マルチプルアーチ式の豊稔池(引用:農林水産省ウェブサイト)
(右)間知石積みと内部の粗石モルタルによる中詰めの状況
(引用:辻幸和 他9)

発電用については昭和5年の小牧ダム(H=79.2m、富山県)のように今日の施工技術と差が無いほどの近代的なコンクリート・ハイダムが建設され、昭和10年の千頭ダム(H=64m、静岡県)、昭和13年の塚原ダム(H=87m、宮崎県)、昭和17年の三浦ダム(H=84m、長野県)などの発電用ハイダムが続々と完成し、日本の水力発電が水路式から貯水池発電に移行した。

日本統治下であった台湾最南端の屏東(へいとう)県では大正10~12年に農業土木技師・鳥居信平(とりいのぶへい)が伏流水を堰き止める二峰圳(にほうしゅう)という地下ダムを建設し、約3,000haの荒れ地をサトウキビ畑に替えた。また、嘉南大圳(かなんたいしゅう)において八田與一(はったよいち)が灌漑計画策定、設計、工事指導などに全力で取り組み、昭和5年に東洋一の規模である烏山頭(うさんとう)ダム(H=56m、セミ・ハイドロリックフィル工法によるロックフィルダム)が10年の歳月を掛けて完成した。これは、日本国内初のロックフィルダムである石淵ダム(H=53m、昭和28年、岩手県)が完成するより20年以上前のことであった。水不足に悩んでいた嘉南平原は烏山頭ダムにより一大穀倉地帯に生まれ変わり、「嘉南大圳の父」となった八田與一の命日(5月8日)には今でも地元農民等により墓前祭が営まれている。

このように大正末期からダム建設が始まったが、当時、重化学・機械工業などの軍需工業の発展により都市用水需要が増大し、さらに治水事業拡大による河床低下により農業用取水が次第に困難となり、慣行水利権の不明確さも相まって、水利使用を巡って利水者間の軋轢が多発した。大正15年、土木研究所所長の物部長穂(もののべながほ)が「害水を変じて資源と為す」との思想で河水統制事業を提唱し、この提言は昭和10年の土木会議河川部会(議長・青山士(あおやまあきら))の議決を得て、国策として正式に取り上げられ、治水と利水(工業用水、飲料水、灌漑用水、発電用水など)が一体となった多目的ダム事業に歩みだすことになった。これは、昭和8年(1933)にルーズベルト大統領が世界恐慌に対応するために創設したテネシー川流域開発公社(TVA)の壮大な河川総合開発計画からも影響を受けていた。

河水統制事業は当初は都道府県が事業主体の国庫補助事業であり、沖浦ダム(浅瀬石川)・向道ダム(錦川)・相模ダム(相模川)等のダムが計画・建設されて、昭和15年には向道ダムが完成・運用された。国直轄事業としては、昭和17年から田瀬ダム(猿ヶ石川)が着手された。

戦後になっても昭和22年のカスリン台風などの大水害に対応して治水事業が実施され、その効果によって昭和40年代頃から大規模な水害は著しく減少した。昭和39年に新河川法が制定され、河川を水系単位で上流から下流まで一貫管理する制度が導入されるなど、物部長穂の理論が法体系化し、河川水の公的管理が確立した。

7. 現代土地改良技術の展開(昭和戦後)

昭和20年11月、政府は食料難に対応するために緊急開拓実施要領を閣議決定して5か年で155万haの開墾等を実施することとした。昭和21年から行われた農地改革により農地の所有構造が自作農主義に抜本的に変革され、昭和24年に耕作者を主体とする土地改良法が制定、耕地整理法に基づく耕地整理組合と水利組合法に基づく普通水利組合が土地改良区に一体化し、それ以降の開拓事業は土地改良法に基づき推進されることになった。昭和25年(1950)に国際かんがい排水委員会(ICID)の設立準備中だったインドより日本へ、ICIDへの参加打診があり、オブザーバー参加を経て昭和26年8月24日に正式加盟することを閣議決定した。これは昭和26年9月のサンフランシスコ平和条約調印前であり、日本は主権を回復する前に灌漑分野から国際社会へ復帰する第一歩を踏み出すことになった。

昭和25年に国土総合開発法が制定されると、昭和32年には愛知用水事業が着手されるなど、各地で最新鋭の大型土木機械を導入した大規模プロジェクトが実施されるようになる。この背景には、世界銀行を通じた外貨導入や特別会計制度などによる積極的な資金動員、公団や国営事業所等により専門技術者を全国から集める組織体制が構築されたこと、また、事業遂行上の課題を学会、大学、研究機関、民間などの各方面で機能的に対応できるほど組織力が高まったことがある。また、昭和29年には土地改良の計画設計基準の大半が完成し、昭和32年に農業土木ハンドブックが改訂(初版は昭和6年)されるなど、農業土木の技術体系が確立した。

昭和30年代の高度経済成長期以降、スプロール的に都市が膨張し都市配水と農業用配水の対抗が各所で問題となった。このため、農業土木技術は物理・工学的な農地・農業水利技術から、技術対象を大幅に拡大し、多目的水利開発、都市周辺地域の再開発、浅海開発等の経済・社会動向にも対処する総合技術となった。また、それまでの防災は人口密集地等の特定地点に重点が置かれていたが、農村部においても防災の徹底が必要となった。

当時の新潟平野は、かつての海の名残から湖、沼、川とも判別しがたい潟が点在し、腰や胸まで湿田に浸かりながらの農作業(図7)にもかかわらず、「3年1作」、「鳥またぎ米(鳥も食わない)」と言われた程の不毛地であった。昭和22年より新川農業水利事業などの数次の土地改良事業によって世界最大規模の新川河口排水機場などが整備されたことで、かつての湛水田地域が国内随一の穀倉地帯となり、米を原料にした製菓業などの数多くの上場企業を輩出することとなった3)

図7:胸まで沈む湛水田での農作業(昭和20年ごろ)
(引用:農林水産省ウェブサイト)

昭和40年代になると米の過剰問題が発生し、農地造成による開田から、畑地灌漑技術に重点が置かれた。昭和45年に着手された南薩地区(鹿児島県)では、自然湖(池田湖)を調整池に組み込んだ大規模な畑地灌漑システムによって、シラスやコラに代表されるかつての劣悪な不毛地を一大生産基地に変革させた。なお、昭和40年代から有線または無線の通信系によって管理所に情報を集める電算処理技術が出現し、昭和40年代後半から情報収集に加えて遠隔制御が取り入れられるようになった。

昭和47年に沖縄が本土復帰すると、沖縄県宮古島で地下水開発調査に着手、農林技師・黒川睦生などの尽力によって昭和54年に完成した皆福地下ダムによる実証試験で地下ダム技術が体系化され、南西諸島の水源に乏しい隆起珊瑚礁の島々が地下ダムによって開発されることとなった。

8. 更新整備と地域課題への対応(平成)

平成に入ると、農村の高齢化、都市化・混住化、離農と農地集積に伴う大規模農家の出現などにより、農村の構造と農業水利の周辺環境はめまぐるしく変化した。また、新規水源開発が全国的に困難になり、既存水資源の効率的利用が求められるようになったため、国営農業用水再編対策事業、地域用水機能増進事業、自然環境保全整備事業などが創設され、さらには小水力発電などが整備されるようになった。平成11年の食料・農業・農村基本法には多面的機能に関する条文が入り、平成13年、土地改良法に環境への配慮が規定された。

福井県の九頭竜川下流地域では農地の集約化が進む一方で、水路の老朽化、生産調整や農地転用による水田面積の減少、塩害による水不足地域の存在などから、平成11年、国営事業により幹線水路をパイプライン化し、生み出される余剰水を周辺地域に配分する用水再編事業に着手、さらに、旧水路の跡地に「せせらぎ水路」を整備するなどして、防火・生活用水、景観向上など地域用水としての利用増進を図り、地域の水利資産の再構築を行った(図8)。

図8:九頭竜川下流地域の大口径パイプラインと「せせらぎ水路」(引用:農林水産省ウェブサイト)

この頃になると、戦後の食糧増産時代に整備したかんがい施設が一斉に更新時期を迎えたため、新規建設から補修・更新へと事業の軸足が移り、平成19年度から5年間で全ての国営施設の機能診断を実施するなど、ストックマネジメントに係る諸技術基準が整備され、平成22年度に土地改良予算の大幅削減があるなかで、平成23年度より機能保全整備を行う各種事業が創設された。平成23年3月11日の東日本大震災以降、大規模な地震や集中豪雨等の災害が各地で相次いで発生したことから、平成30年に国土強靱化基本計画が策定され、農村地域の防災・減災対策が重要となった。

また、農家の高齢化により農地の集積・集約化が進んだこと等によるかんがい期間、用水需要、水管理などの変化に対応する必要が生じたため、平成27年度の食料・農業・農村基本計画において、ICT技術地下水制御システムを推進することで水管理の省力化や営農形態の変化に対応した水利用の高度化を図ることが規定された。

9. 終わりに

以上、2編にまたがり先史から現代までの「水の技術」を俯瞰すると、日本の各地域は、公のために尽くした先人達が水と苦闘したことによって生活できるようになったものであり、水の技術とともに歩んできた歴史を持つことがわかる。平成26年からICIDが認定している91施設の世界かんがい施設遺産のうち39施設が日本の施設(令和元年時点)であり、我が国の農業用水利施設の歴史的・文化的価値は国際的にも高く評価されている。人口減少が著しい農村地域の存続が危惧される今日であるが、このような各地域の歴史を物語る水利施設の文化的・景観的価値を「個性ある地域づくり」に活用できれば、次世代の担い手達が郷土への理解を深めるきっかけとなるのではないかと考える。

また、有史以前から先人の営みとともに歩んできた歴史を持つ農業土木技術は、現代では土木学的技術に軸足を置きつつも、施設機械、電気通信、水文気象、営農作物、環境などの技術や法制度などの知識を駆使した地域のトータルコーディネート力が必要な総合技術となっており、これに携わる者は令和の時代においても活躍の場に不足はないであろう。最後に、そのような時代を生きる「水の技術者」であろう読者の皆様へ、ある土地改良区の事務室に掲示してあった「水五則」を紹介し、「水の章」の結びとする。

  • 一 常に己の進路を求めてやまず自ら動いて他を動かすは水なり
  • 二 如何なる障害にも屈せず巌(いわ)をも透す力を蓄えながらよく方円の器にも従い和合の性を兼ね備えるは水なり
  • 三 自ら清くして他の汚れを洗い清濁合わせ容れるの量あるは水なり
  • 四 力となり光となり生産と生活に無限の奉仕を行い何ら報いを求めざるは水なり
  • 五 洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霰(あられ)と化し凝(ぎょう)しては玲瓏(れいろう)たる鏡となりたえるもその性を失わざるは水なり

※中国の古典に由来し、福岡藩祖の黒田如水(じょすい)(官兵衛)や笹川良一氏が座右の銘にしたとされる。水五訓、または六訓との説もあり

引用文献

  1. 国土交通省下水道部下水道資料室ウェブサイト
  2. 大分県宇佐市ウェブサイト
  3. 月刊コロンブス2019年4月号、東方通信社

参考文献

  1. 水利用の歴史、国土交通省ウェブサイト
  2. 土地改良百年史、平凡社(1977)
  3. 菊池利夫、新田開発、至文堂(1963)
  4. 農業土木学会、農業土木史(1979)
  5. 山本晃一、日本の水制、(株)山海堂(1996)
  6. 辻幸和、宮原輝夫、80年を経たマルチプルアーチ式コンクリートダムの豊稔池の建造と改修、コンクリート工学29巻4号P52-57(2011)
  7. 松浦茂樹、戦前の河水統制事業とその社会的背景、第5回日本土木史研究発表会論文集(1985年6月P187-195)
  8. 松本徳久、我が国フィルダムの設計・施工の変遷、土木学会論文集F Vol.65 No.4,P394-413(2009)
  9. 真榮城忠之、宮古島の未来と地下ダム功労者たち、しまたてぃ64 P40-43( 2013)
  10. 花田潤也、宮古島における農業用水開発の歴史と農業水利施設の継承、水土の知82(11)(2014)
  11. 富山和子、水の文化史、中央公論新社(2013)
  12. 徳仁親王、水運史から世界の水へ、NHK 出版(2019)
  13. 日本が誇る世界かんがい施設遺産、東方通信社(2019)