里の章 - 我が国の農村の歴史について -

「国のまほろば」を今に伝える大和平野(奈良県明日香村)

1. 稲作と始まる日本文化(原始から古代)

日本列島における人類の出現は十数万年前とされる。それから縄文時代(約1万6千年前~)までの長い期間(旧石器時代)は定住住居跡が少なく、氷河期の中、人々は遊動しながら採集狩猟をしていた。

縄文時代になると人々は採集狩猟に加えて農耕を行うようになり、定住集落を設営した。縄文時代の集落は中心広場を取り囲むように4~5戸程度の竪穴式住居を配置した環状集落(平均人口30名程度)が一般的である。集落の中心広場には墓地を伴うことから、霊的な存在を生活の中心に据えてアニミズム(精霊崇拝)による祭祀(さいし)が行われたとされている。墓地や住居跡から、縄文時代の人々は身分の差がなく、協力しながら生活を営んでいたと考えられている。

縄文後期~弥生初期に大陸から水田稲作の技術が伝わると、利水に有利な谷地や低湿地を水田として耕作するようになり、豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)(古事記)と称される我が国の人々の行動原理が生まれた。水田稲作を行うには個人や一家の勝手は許されず、集団行動に従うことが必要になったのである(図1)。血縁で結ばれた集団ムラ(集落)を形成し、周囲に濠(ほり)や土塁(どるい)をめぐらせた環濠(かんごう)集落を設営した。ムラでは稲を貯蓄する高床式倉庫を共同管理し、米が物品貨幣としての地位を固めると貧富の差が生じ始め、集落間の紛争も生じるようになった。当時の生活は自然災害に対して無力であり、集団で祖先の霊が災いを防いでくれるように祈願した。このころから四季に応じた農耕儀礼が一年間の生活の基軸となり、春の水口(みなくち)祭り、御田植(おたうえ)祭り(図2)、夏の虫送り、雨乞い・日和(ひより)乞い、秋の風祭り、収穫祭(図3)、冬の田打(たう)ち正月などが現代に受け継がれている。

図1:弥生時代の水稲農耕の様子
(引用:図説日本史通覧 P30(帝国書院))
図2:鎌倉時代より伝わる壬生(みぶ)の花田植(はなたうえ)(広島県)
ささら、太鼓、笛や手打鉦(てうちかね)で囃し、早乙女が田植歌を歌う。6月第1日曜日に開催。
(写真提供:広島県)
図3:五穀の収穫を神々に感謝する新嘗祭(にいなめさい)(伊勢神宮)
11月23日は戦後に「勤労感謝の日」となった。
(引用:伊勢志摩経済新聞ホームページ(2016.11.24))

大陸から入った青銅により銅鐸(どうたく)などの祭具が作られ、農工具のみならず武器・防具に使われたため、鉄を持つ集団が勢力を伸ばした。弥生後期(1世紀頃)になると倭の奴国(なこく)のようなクニ(小国家)が歴史に登場し、3世紀前半になると邪馬台国の卑弥呼を祭主とする30程度の国々からなる女王国が現れた(魏志倭人伝)。

やがて、巨大古墳を築造するほどの労働力を集結した大和朝廷が水田を拓く技術(農業土木技術)を持つようになり、奈良盆地の東南部において、夏には青々と秋には黄金色に輝く大水田地帯「国のまほろば」が創出された(古事記)。弥生時代の祖先崇拝を受け継いだ古墳時代の宗教は原始神道となり、地域毎に自然神、祖先神などを祀(まつ)る神社が作られた。

2. 支配される農民の暗黒時代(荘園制の時代)

聖徳太子十七条の憲法を制定し、第一条に「和をもって貴(とうと)しと為(な)すこと」、第二条に外来教である「仏教を敬うこと」として、これらが第三条の「天皇の詔(みことのり)に従うこと」よりも上位に定められたことから、協調と融和国是(こくぜ)とする我が国の原始的価値観が伺われる。

大化の改新(645)によって律令国家が成立すると、人々は公地公民制の下で口分田が与えられるが、農民の暮らしは貧窮問答歌(万葉集)のように悲惨なものであった。やがて口分田として配分する土地が足りなくなると、墾田永年私財法(743)により開墾地の私有が認められたため、貴族寺社が私有田(荘園)を広げ始めた。以降、貴族、寺社、そして武士たちが荘園の徴税権を奪い合う時代が荘園制の終焉まで、約800年間続くこととなる。その間、国司荘園領主も費用がかかる水源灌漑施設の建設に力を入れることは稀であり、人口も農地もほとんど増えなかった。農民(荘民)達はかろうじて生きながらえたが、墓を作り死者を弔うことも許されず、農地や生産手段に対して何らの権利もないまま領主の自営田の耕作のために労働が強制され、複雑に絡み合った土地の権利関係によって多重に搾取された。

3. 自治組織「惣」の連帯意識と水利秩序の形成(室町時代)

室町時代に入ると守護大名が荘園領主の権限を奪ったため、荘園で奴隷のように働かされていた中小農民の地位が向上し、地縁的な自然集落を単位として自治組織「惣(そう)」が形成された。惣は全構成員による寄合(よりあい)を意思決定機関として、村掟(むらおきて)を定め、共同で農作業、灌漑施設や入会地(いりあいち)の維持・管理、治安・防災活動などを行い、刑罰(村八分など)の執行を含めた自治裁判を行うことさえあった。支配層が不当に農民の権利を脅かそうとした場合などには、団結して領主に訴える強訴(ごうそ)、集団で逃亡する逃散(ちょうさん)、そして武器をとって集団で反抗する一揆(いっき)などにより対抗した。

強い連帯意識で結ばれた惣の間では、水争いや入会地を巡る争いも頻発した。岩手県の滝名川は、水量が少なく志和稲荷神社前で本流と支流に二分されるため、日照が続くといずれか一方の水系の者が徒党を組んで相手方の取水口を堰止めてしまい、江戸から大正まで約300年の間に記録に残っているだけでも36回の水争い(滝名川の水げんか)が発生した(図4)。慶応元年(1865)の水争いでは本流側2千人、支流側3千人が対峙し、野村屋多治兵衛が鎌で脳を刺され、松蔵が頭部を鳶口(とびぐち)で乱打されて共に死亡。松蔵は苦しさの余り助けを乞うたが、対立する人達は無情にも「最期の水を飲め」と言いながらその顔に小便をしたという1)。長く続いたこの地域の水争いは山王海ダム(昭和27年)の完成により終結し、その堤体には「平安」の文字が植栽されて今日にも引き継がれている。

図4:水争いの投石によって耳や口が欠け落ちた門前狐(志和稲荷神社)
(撮影:農林水産省東北農政局)

水なしでは食料を得ることができない集落にとっては水を得ることは文字通り「死活問題」であり、上記のような激しい水争いもあったが、一方で、水利システム全体を損なえば全員が損をすることを農民達は理解していた。このため、水争いの度に調整が繰り返され、証文を取り交わすなどにより各地で水利秩序が形成された。特に、取水量を配分する分水は村々の最大の関心事であり、佐賀県寒水川の一ノ瀬堰では加減石(水分石(みくまりいし))と呼ばれる2つの自然石の配置により分水量を調整した(図5)。円筒分水工(図6)は誰の目にも公平性が明らかなので水争いの解消に役立つが、その登場は近代化以降(大正3年~)のことであった2)

図5:一ノ瀬堰の加減石(佐賀県みやき町)(右上:配水書類)
(引用:大地への刻印 P124)
図6:栗本堰円筒分水工(福島市)
(写真提供:福島市土地改良区)

渇水時には用水時間を区切って平等に水を分け合う番水が行われ、特に雨量が少ない讃岐地方(香川県)では線香が燃える時間でため池の水を配分した(線香水)(図7)。滋賀県の高時川では、渇水時に下流の農家が白装束を纏(まと)って上流の芝堰(しばぜき)の一部を切り落とす「井落とし」という儀礼が昭和18年まで約400年間にわたり実施された3)図8)。このように、水田稲作は自分が所属する組織の枠組みを超えた公の利益を考えながら取り組むものであり、我田引水は犯罪にも等しい行為と考えられていた。

図7:線香水に使う線香箱と太鼓
(写真提供:香川県農政水産部土地改良課)
図8:高時川の井落としの様子
上 井落とし前に対峙して口上を述べる代表者達
下 流血沙汰の歴史を尊重しながら約束事で練り上げた儀礼となり、厳かに執り行われた。
(引用:水土の礎[湖北の祈りと農])

4. 土地や共同体への思いを強める農業村落(江戸時代)

豊臣秀吉が戦国時代を制すると、刀狩によって兵農分離を進めるとともに、太閤検地によって一筆ごとに土地の耕作者(本百姓)を検地帳に登録し、石高に応じた年貢を義務付けた。秀吉の死後、幕藩体制により土地と人民を支配し、用水・山野入会権などの諸要素を考慮して村境を定めて(村切り)、村落を単位として年貢・諸役を割り当てた(村請制度)。当時は全国に約7万の村落が存在し、人口の80%が村落に住む百姓であった。

村の運営は名主(なぬし)庄屋、肝煎(きもいり))、組頭百姓代村方三役が中心となり、五人組(本百姓5~6人)を単位としてムラぐるみで火の用心、犯罪防止、祭りや年中行事を行い、費用は百姓全体で負担した。百姓達は耕作権が認められたことによって土地や屋敷を代々長男に受け継ぐようになったことから、土地に強いこだわりを持つようになり、土地を拓くことで子孫がより豊かな生活を送ることができるという夢を見た。そして、それが新田開発の原動力となった。

福岡県うきは市では、五人の庄屋(五庄屋)が水不足で貧窮する集落に危機感を募らせて、筑後川の遙か上流から水を引くという遠大な計画を立案して自ら調査計画を進め、お上に工事の認可を訴えた。郡奉行(こおりぶぎょう)の協力もあり、工事は藩の認可を得られる運びとなったが、失敗した場合には五庄屋は磔(はりつけ)になるとされて、五基の磔台の下で工事が実施された。このようにして1674年に大石堰が完成して不毛の地が大穀倉地帯に生まれ変わり、後世に五庄屋を祀る長野水神社ながのすいじんじゃ)(五霊社(ごれいしゃ))が創建された。

宮崎県西都市では庄屋の次男だった児玉久右衛門(こだまきゅうえもん)が一ツ瀬川の水を引けば村が豊かになると思い立ち、一戸一戸計画を説明して回りながら、豪商の出資を受けて灌漑工事を開始した。水害を懸念する反対者の妨害や洪水による堰の流失などの苦難に遭い、出資者が離れた後は田畑屋敷を手放して私財を投じ、難工事が続き無一文になるが新たな出資者に救われて、1720年に杉安井堰(すぎやすいぜき)を完成させた。このように地域に尽くした先人たちによって、全国各地で新田開発が急速に進められ、江戸前期の100年間で全国の耕地面積が倍増(約150万ha→約300万ha)した。このような地域の新田開発にまつわる先人たちの物語は日本の全国各地で伝承されている。

堤防や堰など水を制する工事は多くの犠牲者が出ることから、生きた人柱を水底や土中に埋めて神に捧げる風習が近世まで実在した。青森県藤崎町の堰神社には、1609年に自らを犠牲にして堰き止め工事に貢献した太郎左衛門が神として祀られ、当時の状況を伝える絵図(図9)が安置されている。

図9:太郎左衛門は自らの命を犠牲にして堰き止め工事に貢献した
(引用:藤崎町観光情報ウェブサイト「ふじさんぽ」)

このように、百姓たちは、土地を拓き村を創り出した地域の先人を産土神(うぶすながみ)あるいは氏神として鎮守の杜に祀り、村の繁栄を祈った。また、幕府の檀家制度により貧しい百姓でも墓を建てることができるようになり、檀家寺の墓に眠る先祖の霊・魂に一家の幸せを願った。これらの寺社は集会所としても機能し、農耕儀礼と密接に結びついた年中行事を通じて、人々は季節を楽しみ、様々な願いを託し、村落の絆を強めた。こうして、日本人は先祖が苦労の末に手に入れた土地、村、藩などの運命共同体に強いこだわりを持つようになったのである。

5. 近代的資本主義と家制度(明治時代から大戦前まで)

明治新政府は明治4(1871)年に廃藩置県を実施。明治6年に内務省を設立し、明治22年の市制・町村制によって全国に約16,000の市町村を設置するなど、中央集権的な体制を固めた。また、各地で新しい行政区の基本方針である郡是(ぐんぜ)・町村是(ちょうそんぜ)が定められた。こうして江戸時代の村落(旧村=自然村)は、新しい市町村(行政区)の大字となり、水利組合などに見られるようなムラの共同体として機能することになった。

明治政府は地租改正(明治6年~)によって地主や自作農に地券を発行して私的所有権を認めるとともに、徴税方式を年貢(物納)から地価の3%相当の金納に変更した。これは政府の税収安定化に貢献したが、豊作による物価下落や自然災害による凶作などがあっても地租が下がらないため、多くの本百姓達は地租を払えなくなり、先祖代々の土地を手放して小作農に転落した。また、明治31年に民法(明治民法)が制定され、所有権永小作権賃借権などの近代的な土地権利が法定化されて、地主が小作農を使役する構造となった。

明治民法のもう一つの特徴は家督制度である。戦国時代までの農民は傍系親族(次男夫婦など)や隷属農民を含めた複合大家族図10)でなければ生活できなかったが、江戸時代になると小農自立が進み単婚小家族が増加した。さらに明治時代になると農民にもが与えられたことから、同じ氏を持つが社会の構成単位となった。明治民法では戸主世帯主)と家族主従関係と規定され、戸主には家族の扶養義務とともに戸主権が与えられて、土地・財産含めた家督を全て長男のみが相続するという男尊女卑・長子優遇の制度であった。家督を譲った祖父は隠居者となるが、農家にとって祖父母の労働力のみならず、営農技術をはじめとする生活の知恵は必要不可欠であり、明治32年の教育勅語にある通り「父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互いに睦(むつ)び合う」ことが理想的な家族像とされた。このようにして、夫婦(核家族)を社会の構成単位とする欧米に対して、家を構成単位とする日本独自の社会システムが構築された。

図10:複合大家族と単婚小家族の形態図
(引用:馬場弘臣教授(東海大学)ホームページ)

明治時代に発展した資本主義によってムラの土地所有は地主層が中心となるが、明治初期から明治20年代頃までは、自ら耕作意欲を持つ江戸の豪農手作り地主田区改正(でんくかいせい)土の章 図11)に取り組むなど、集落の指導的役割を果たしていた。しかし、明治30年代以降になると、小作料に依存する寄生地主や集落外に居住する不在地主が増加し、彼らは高利貸しなどの副業には積極的であったが、集落の一体感は失われていった。

明治維新から太平洋戦争が始まるまでの約70年間、日本という国は富国強兵を目指し、米作りの国からモノづくりの国へ転換することで欧米列強に追いつこうとした。実際、欧米諸国が工業化による経済成長を達成するのに3~4世紀要したのに対し、日本は1世紀足らずでこれをやり遂げた。

昭和4(1929)年に世界恐慌が発生。昭和6年と昭和9年は冷害により大凶作となり、東北地方を中心に困窮し食料を買えない農家が続出した(昭和の農業恐慌)。欠食児童娘の身売りが社会問題となり、小作農が組合を作って小作料の減免や条件改善を地主に訴える小作争議が頻発した。

この間、耕地面積は増えたが、人口も増えて米が慢性的に不足したため、農民たちは水田を求めて海外へ渡った。日本は欧米列強と同様、領土拡大の道を辿ったが、外地の統治政策は欧米の植民地政策とは異なっていた。勤勉な日本農民は外地の過酷な気候の中で汗と泥にまみれ、自ら土地を拓いたのである。そして慣れない地域で不安定な生活を送る彼らは拓いた土地に寺社を建て、コミュニティを形成した。

こうして、水田稲作と共に集団生活を始めた日本人は、私益よりも自身が所属する集団の利益を優先しなくてはならないという価値観を持つようになり、それが我が国を短期間に近代化する原動力となった。しかし、その価値観は個人の権利を制約する全体主義的な側面もあり、個々人が国、ムラ、家などの所属する集団のために涙を飲むことも少なくなかった。女性が家のために望まない結婚をすることも珍しくない時代であり、先の大戦では多くの若者が国のために命を落とした。そして我が国は敗戦し、自由と民主主義を掲げる現代国家となった。

6. 戦後復興と土地改良の発展(昭和20年代~)

戦後になると、農地改革(昭和21年~)により地主制が解体し、農業の担い手は自作農となった(小作地の割合:46%→10%以下)。そして昭和24年に制定した土地改良法によって、自作農ら(三条資格者)の申請を契機として幾度もの話し合いが合意形成に至るまで繰り返される事業プロセスが法定化されることとなり、これが農村協働力を維持・発展させるために重要な役割を果たすことになった。また、水利組合・耕地整理組合などの農家の権利調整や施設の維持管理を担う団体は土地改良区に一本化され、さらに昭和32年の法改正によって県土連・全土連が設立された。なお、昭和22年に農協法、昭和26年に農業委員会法、昭和27年に農地法が制定され、これらを束ねる全中・全国農業会議所が昭和29年に設立された。

戦後復興期は戦後引揚者の帰農促進食糧増産を目的に緊急開拓事業が実施され、これにより農業土木(土地改良)は従来の灌漑排水・農地造成のみならず、集落計画公共施設計画上水道計画等を含めた農村計画の体系を持つようになった。さらに昭和25年に国土総合開発法に基づく土地・水資源開発を担い、ダムの水没補償多目的施設のアロケーション他種水利との水利調整などの社会問題にも対処した。そして昭和30年代に高度経済成長期に入ると、愛知用水豊川用水八郎潟干拓土の章 図13)、篠津泥炭地開発などの大規模プロジェクトが実施され、農業土木コンサルタントが誕生するとともに、土地改良は地域の総合開発技術へ発展した。

7. 高度経済成長とムラの衰退(昭和30年代~)

昭和35年になると食糧増産の命題は終わりを告げ、国民所得倍増計画が提唱された。昭和36年に農工間格差の是正を目的として農業基本法が制定され、開拓パイロット事業(昭和36年)や圃場整備事業(昭和38年)などにより労働生産性の向上農業生産の選択的拡大を進めることとなった。

圃場整備により農業の機械化が進み、労働生産性は向上するが、一方で、祖父母と嫁に農作業を依存する三ちゃん農業が流行語になるなど、農業の兼業化が進むこととなった。また、農村では混住化が進展するとともに、農家の次男・三男は雇用機会を求めて都市へ進出した。

こうして会社に勤め始めたかつてのムラ人達は、村落ではなく会社組織を運命共同体と見なすようになり、彼ら特有のムラ人の行動原理によって日本企業は驚異的な生産性を生みだすことになる4)。彼らは寄合と同様に社内の度重なる合議を通じて自分の役割を理解し、企業内組合によって過度な権利主張や労賃争いをすることはなく、会社に忠誠を誓い規律を守り抜いた。経営者はその働きに報い終身雇用年功序列を約束した。経営者も従業員も、ムラが豊かになるために土地を開拓したように市場を拡大し続け、そして大企業の創業者はムラの産土様と同じように経営の神様として社会全体から称えられた。このような日本型経営によって、我が国は昭和30年代半ばから年平均10%を超す高度経済成長を続け、昭和43年にGNPが世界第2位の経済大国となった。

こうして都市の生活水準は急速に向上したが、農村では1960年代の「人の空洞化」(過疎化)に起因して1980年代半ばから「土地の空洞化」(耕作放棄地の増加)、1990年代頃から「ムラの空洞化」(限界集落化)となり、相互扶助が衰退して共同活動に支障をきたすようになった5)

相互扶助の衰退は、戦前まで人々が国・ムラ・家に抑圧されてきたことの反動とも考えられる。日中戦争頃から各地で部落会・町内会が作られ、その下に隣組図11)が置かれた。隣組は回覧板などを通じて配給などの情報を伝達する生活の要であるとともに、政府機関の下部組織として個人を統制する役割を担った。戦後、昭和22年に町内会などは戦争を草の根的に支えたとして占領軍によって解散させられるが、罰則のついた政令下にもかかわらず、地域の相互協力の媒体は必要とされて、解散後3ヶ月以内に8割近くの町内会が名目のみを変えて再建された6)。そして昭和27年に講和条約により禁止令が解かれ、町内会は地域の自治会として復活した。

図11:町内会内に10世帯程の単位で隣組が作られた
(提供:昭和館)

戦後の自治会は防犯、交通安全、消防、祭りの運営など多様な地域活動を担うが、信教の自由政教分離の原則などにより、その活動は地域の寺社と一線を画すことが必要になった。また、家族の意識も変わっていった。農業の機械化が進んだため、従来のように親・子・孫三世代が協働で農作業を営むことが少なくなり、次男・三男そして娘たちは成人すると便利な生活を求めて都会へ出るようになった。さらに婚姻は家や社会の問題ではなく両性の合意のみに基づく個人の問題とされたため、結婚の世話人は減り、晩婚化・未婚化が進展した。このようにして核家族が増え、その核家族もムラの衰退によって地域から孤立したものになった。

こうして、生まれた赤子を親に代わり祖父母が世話することも、年老いた祖父母の臨終を家で看取ることも、ましてや隣人が家族に代わって子どもや老人の面倒をみることも少なくなり、核家族の夫婦はムラの相互扶助に頼らずに子を産み育て、家族と離れて生活する老いた親の面倒をみることが必要となった。昭和48年は現行の年金・医療などの社会保障制度が本格的に始まる福祉元年となるが、現在に至るまで我が国は少子化・高齢化の一途をたどり、社会保障費が国の財政を圧迫することとなった(国民所得に占める社会保障費の割合:6%(S45)→31%(H28))。

さらにもう一つ、昭和40年頃に始まる米余りによってムラは根本的に変化する。日本人にとって米を食べられることは豊かさの象徴であったが、皮肉なことに、それを達成した瞬間に米は不要となった。こうして、ダムを築き、湿地を干拓し、水田を拓いてきた土地改良技術者達は、新たな岐路に立たされた。

8. 都市と農村の格差を是正する農村整備事業(昭和40年代~)7)

昭和40年代になると「国土の均衡ある発展」、「シビル・ミニマム」という言葉が使われ、都市と農村の生活環境格差が課題となった。また、経済発展に伴う無秩序な土地開発(スプロール現象)に対処するために昭和43年に都市計画法、昭和44年に農振法が制定され、地域がゾーニングされた。そして、農村は農業生産と農村生活が混在する空間であることから、地域の総合開発技術へ発展を遂げた土地改良技術は生産基盤と一体的に生活環境基盤を整備する農村整備事業に推移した。これは、生活基盤が遅れているにもかかわらず予算が行き届きにくい全国の農村地域からの社会的要請でもあった。

昭和45年2月「総合農政の推進について」が閣議決定されて農業基盤総合整備パイロット事業調査(総パ調査)に着手、昭和47年から農村基盤総合整備パイロット事業(総パ事業)によって生産基盤の整備と併せた農家の次三男住宅用地の創出、集落道、営農飲雑用水設備、集落排水施設、農村公園などを国庫補助率60%で総合的に整備可能となった。

総パ事業の発足時、総合的な地域計画を樹立するための農村計画法の必要性が議論され、具体的には農振法を吸収して農村計画法を、土地改良法を拡充して農村整備法を創設することなどが検討された8)。しかし、大蔵、自治、建設などの各省調整の結果、農水省主導の農村計画法は実現せず、農村整備は国土庁(昭和49年設置)の指導により市町村が策定する農村総合整備計画(マスタープラン)の下で関係省庁と協力しながら実施することになった。だが各省協議の結果、「マスタープランは関係各省庁の事業の計画及び実施を決定するものではない」とするなどの覚書が取り交わされ、この計画は農水省の農村総合整備モデル事業(モデル事業)によって一部が実現されるに留まった。

旧村程度の範囲を対象としたモデル事業は、広域を対象とした総パ事業と比べて使い勝手が良く、平成9年度までに1,300以上の市町村(当時の4割超)で実施された。また、昭和45年に広域営農団地農道整備事業(広域農道)、昭和51年には集落程度の規模を対象とする農村基盤総合整備事業(ミニ総パ)が創設され、昭和58年に農業集落排水事業がミニ総パから独立した。さらに、昭和47年の日本列島改造論により地価が急上昇する中、同年の土地改良法改正によって非農用地換地制度が拡充され、圃場整備事業の換地により工業用地、住宅用地、運動公園などの公共公益施設用地を創設することで、農村の新たな土地需要に応えながら土地利用を秩序化した。

9. 農業土木技術から農村振興技術へ(平成前半)

平成に入ると国際化に対応するための担い手育成や、その背後にある条件不利地対策、さらに農村らしさを意識した美しい景観環境保全が注目される。平成3年に景観・生態保全施設を整備する水環境整備事業、農村部の分散する農地転用需要を創出換地によって統合して住宅・公園等の用地を創出する農村活性化住環境整備事業が創設され、これらを支援する農村環境整備センターが設立されるとともに、農業基盤整備事業の名称が農業農村整備事業と改められた。

平成2年に生産基盤と生活環境を一体的に整備する中山間地域農村活性化総合整備事業(平成7年に中山間地域総合整備事業と名称変更)、平成4年に耕作放棄地を取り込んで基盤を整備する農地環境整備事業が創設され、平成5年に特定農山村法の制定により中山間地域という概念が法定化された。こうして農業農村整備事業における農村整備のシェアは4割超(平成8年度)に拡大した。

また、地域住民と都市住民を交えた地域保全活動はふるさと水と土基金(平成5年)や棚田基金(平成10年)などのソフト事業で支援された。平成7年に英国のグラウンドワークの手法で地域住民と行政、企業が連携して農村施設の保全管理に取り組む日本グラウンドワーク協会が設立、また、平成10年に仏のエコミュゼに倣(なら)い農村をエコミュージアムとして整備する田園空間整備事業が誕生した。

平成11年に農業基本法が食料・農業・農村基本法となり、そして平成13年1月の中央省庁再編(23府省→13府省)によって「農村振興に関する府省横断的な政策の提示・調整」の所掌が国土庁から移管されて農村振興局が発足する。こうした背景により、平成14年5月に全国農業土木技術連盟(昭和22年設立)は全国農村振興技術連盟と名称を改め、土地改良技術者の集団は自らを農村振興技術者と称して地域振興に尽力する決意を新たにした(なお、平成14年に土地改良区の愛称が水土里ネットとなり、平成19年度に農業土木学会は農業農村工学会となった。)。

10. 地方分権と地域政策の総合化(平成後半~令和)

このように農村整備事業は昭和40年代から平成前半までの間に拡大し、農村振興局の予算補助事業によって政策的に実施されてきたが、平成10年以降の地方分権三位一体の改革)により急速に地方に裁量が移譲され、政権交代後の事業仕分け(平成21年)や土地改良予算の大幅縮減(平成22年)を経て農山漁村地域整備交付金に統合された。

一方で、基盤整備と表裏一体のソフト対策として平成12年に集落協定を通じて条件不利地域の農業生産を維持する中山間地域等直接支払制度、平成19年に地域の資源保全活動により集落機能を支援する農地・水・環境保全向上対策が創設され、これらは平成26年に法定化されて日本型直接支払制度として確立された(「日本型」とは、支払い対象が個人ではなく地域や集落であることによるもの)。

その他、農村の担い手不足や所得向上の課題の深刻化を踏まえ、農村振興局は農村の魅力を観光に取り込んだ農泊、農村の被害の元となる鳥獣を地域資源として活用するジビエ、農業の雇用対策と障害者等の社会参画・健康増進等を同時に実施する農福連携等の官邸の関心が高いプロジェクトを複数担っている。

平成26年9月、まち・ひと・しごと創生本部が内閣官房に設置され、行政の縦割りを排除して人口急減・高齢化などの地域課題に政府一体となって取り組むことを基本目標とした。農村を振興するためには、地方創生関係交付金(地方創生推進事務局)、地域おこし協力隊(総務省)、小さな拠点(国土交通省)等の複数省庁の制度を有機的に活用することが重要であり、令和2年3月に閣議決定された食料・農業・農村基本計画では、「農林水産省が中心となって、関係府省、都道府県・市町村、事業者とも連携・協働し、農村振興施策を総動員して現場ニーズの把握や課題解決を地域に寄り添って進めて行く『地域政策の総合化』」を推進することとしている。また、令和2年度、生産基盤と生活環境を一体的に整備する中山間地域農業農村総合整備事業が農業農村整備事業の補助事業として創設された。

11. 終わりに~水土里の軌跡の先へ~

水田稲作と共に集団行動を始めた私たち日本人は、自らの利益よりも所属する集団の利益を優先するという価値観を持って近代化を成し遂げ、大戦後にムラを失った日本人は会社組織に身を捧げて我が国を経済大国に発展させた。そして近代に誕生した土地改良技術者集団は地域の合意を必要とする事業を進めるために数々の社会問題に対処し、その技術を農村地域の総合開発技術へと発展させた。今後、「地域政策の総合化」を図るためには、かつて激しい水争いをした村落群が水利秩序を形成してきたように、異なる行政機関が組織の枠組みを超えて協調することが必要であり、その調整には現場の一線で本質的課題へ対処して地域の合意を形成してきた技術者集団の役割が重要となるであろう。

現場では、働き方改革による超勤縮減が進められている中で、通常業務に追われる農村振興の担い手(国営事業所、県の地域振興局、市町村、土地改良区等)が「地域に飛び出す」条件を整えることが必要である。このため、産官学(農業土木コンサルや大学等)の連携が重要であるとともに、中央省庁や県庁は、より一層の制度の単純化、文書の可読性の向上、調査モノの簡略化等を進めることが求められる。

そして、情報過多の現代であるからこそ、各地域の水土の成り立ちや、その礎を築いた先人達の情報を、次世代の担い手に確実に届けることが重要である。令和2年度から10年ぶりに改訂された教育指導要領が適用となり、主体的・対話的な深い学び(アクティブ・ラーニング)を通じて「地域の伝統文化や地域の発展に尽くした先人の働き(小4)」、「食料生産(小5)」が学習されるため、各地域の土地改良関係者の役割が期待される。

2000年以上続く瑞穂の国で水・土・里が描いてきた軌跡は、先人達が協調してムラの子孫が豊かになるように願い、技術と労力を集結して水田を拡大し、切り拓いてきたものであった。その先を描くためには、国全体の利益を見据えて所属が異なる集団が連携し、現代の技術とリソースを集結して地域の生産・生活基盤の整備とともにムラ(共同体)を再生し、それを各地域・組織の次世代の担い手へ継承することが必要となるであろう。

主な参考文献

  1. 広報しわ ふるさと物語27(紫波町ホームページ)
  2. 円筒分水ドットコムホームページ
  3. 金子照美、誰もが知っているはずなのに誰も考えなかった農のはなし(2007)
  4. 田久保晃、水田と前方後円墳、(株)農文協プロダクション(2018)
  5. 小田切徳美、農村と農村政策の実態と展望、農林水産省勉強会(2019.11.12)
  6. 福山自治会連合会ホームページ
  7. 土地改良建設協会、特別企画平成土地改良考、土地改良第305号(2019)
  8. 佐藤洋平、農村整備施策の歩みと農村計画研究の展開方向、農村計画学会誌Vol30、No.3(2011)